名前
井上荒野と松太郎
2020年7月15日放送
「鳥のヒナみたいな声がしない?」私はそう言っただけだった。
確かめてきて。とさえ頼まなかった。
でも入浴して出て来ると、夫がそれを連れて来ていた。
それは、ヒナではなかった。
彼の手のひらにすっぽり入って、まだ十分余裕があるほど小さい黒白の毛並みの子猫だった。
「向かいの家の門の下に落ちてた」夫は言った。
「どうするの?」私は言った。
子猫は相変わらずヒナみたいな声で泣きながら夫の手のひらの中にいた。
私はまだ手を触れていなかった。
触れない方がいいような気がしていた。
子猫はあまりにも小さくて、オスかメスかすら、まだ分からなかった。
「どおするって、拾っちゃったんだから、飼うしかないだろう」
「拾っちゃったって…」
夫にはそういうところがある。
なんでも、ほとんど考えないで決断してしまう。
彼と暮らし始めて10ヶ月目の初夏だった。
遅い結婚だった。
お互いにいろいろあって、難しいだろうと思っていたが、今こうして一緒に暮らしている。
夫がそうすることを選んでくれたのが嬉しかったが、ちゃんと考えてのことだったのだろうか、と最近は思うようになっている。
「まだ目が開いたばかりじゃない?」
「育つのかしら…」
「育てなきゃ」
夫はキッチンをゴソゴソ探し回って、うちにある中で一番小さなザルに、ハンドタオルを敷き、そこに子猫をそっと置いた。
それからパソコンでしばらくカチャカチャやっていたかと思うと「ちょっと買い物してくる」と言ってアパートを出て行った。
私は髪にドライヤーをかけ、明日ボークビーンズを作るために、豆を洗って水につけた。
それでもう、今しなければならないことはなくなってしまったので、仕方なく子猫のそばへ行った。
子猫が入ったザルは、ダイニングテーブルの真ん中に置かれていた。
端に置くと危ないと思って真ん中に置いたのだろうが、ザルから転がり出て這い出せば、テーブルの上から落ちてしまうだろう。そう考えたらゾッとして、私はザルをそっと持ち上げ、寝室にしている四畳半の座敷に運んだ。
畳の上にザルを置くと、しばらくおとなしかった子猫は、また泣き始めた。
仰向けになって、手足をバタバタさせている。
小さな黒い目、ピンク色の鼻、鳴く為に必死に動かしてる口、人差し指を近づけると前足でつかんだ。ゴマ粒みたいな肉球は、ひんやりと湿っていたが、ぷっくり膨らんだ腹には確かな体温がある。
猫が嫌いなわけではなかった。
実家には子供の時からいつも猫がいた。
ノラの子猫がいつの間にか家の中に入って来るようになり、そのまま名前を付けてうちの猫になったということも何度かあった。
猫にも、猫を飼うことにも慣れている。
猫が嫌いなわけなどない。大好きだ。
それなのに今、どうしてこんなにビクビクしていて、夫が一言の相談もなく、この子猫を連れて来たことに腹を立てているのだろう。
夫が帰ってきて、猫用ミルクやスポイトや綿棒を袋から取り出した。
「そんなもの飲ませて大丈夫なの?」と、私はハラハラし通しだった。
子猫はスポイトにかじりついて、旺盛に飲んだ。
母親が舐めるように綿棒で刺激すると、ちゃんと排泄もした。
それでも翌朝になるまで、不安で仕方なかった。
夜の間に死んでしまうのではないかと思って…
でも、子猫は夜通し泣いて、ミルクを要求した。
次の日に2人で動物病院に連れて行き、当分は昼夜問わず2時間おきにミルクを与えるようにと教わった。いくつかの検査をし、予防接種もしてもらい、哺乳瓶を購入した。
子猫はオスということも分かった。
「名前をつけないとな」帰り道で夫が言った。
カルテに書く名前がまだなかったのだ。
「そうね…」私は生返事した。
子猫は私の夏用のカゴバッグの中にいて、私はバッグをワイングラスを乗せたトレイみたいに、両手で慎重に抱えていた。
「君が考えてくれよ」
結局その夜、2人で考えた。
二点三点することもなく、すんなり「松太郎」という名前に決まった。
子猫がふいに私たちの家にやって来たみたいに、その名前も、ふわりと子猫の上に降って来た。この子はオスですね。と獣医師が言った時から、その名前は私たちの頭の中にあったみたいだ。いや、オスだと分かる前から、私は心の中で、その名前で呼んでいたような気さえした。
この猫は、私たちの猫だ。
私は突然、そう思った。
それが不安と夫への怒りの正体だったことに気がついた。
実家で飼っていた猫たちは、私の猫じゃなく、うちの猫だった。
でも、松太郎は私の猫だし、私と夫の猫だ。
そのことに、それが自分にとって、歴然とした事実であることに私は動揺し、その、事の重大さに夫が気づいていないように思えて、腹が立っていたのだ。
分かったからと言って、不安が消えるわけもなかった。
私は心配し続けた。
病気、脱走、迷子、誘拐、心配の種はいくらでもあった。
実際に松太郎は何度か病気になったし、脱走もした。
幸いなことに、松太郎は戻って来た。
病院からも、小一時間の冒険からも…
あの小さなザルに入っていたのにねぇ…
今では8キロの巨体になった松太郎を見ながら、私と夫は笑う。
彼は今年は二十歳になる。
年齢と、たぶん体重のせいで時々足を引きづるようになったが、まだ食欲旺盛で毛並みもツヤツヤしている。
それでも永遠に一緒にいられないことは分かっている。
私の目下の心配事は、それだ。
その日が来ることが恐ろしくてたまらない。
でも私たちは、その日を乗り越えるのだろう。とも思っている。
乗り越えるしかない。生きていく以上は…
不安だったのは、そのことだったのかもしれない。とも思う。
私たちは生きていく。その自明さ。
小さなザルは、金網の一部がほつれてはいるが、まだ我が家のキッチンにある。
私と夫も一緒に暮らして20年になる。
井上荒野さんと旦那さんのお家がとてもいい環境で… まずは映像に癒されました。
あんな素敵な環境で育った松太郎くんは、本当に幸せ者だと思います。(最近ノラさんをたくさん見ているので、特にそう思います)
そして、私もうちの子たちが14歳を超えた頃から、その日が来るのを覚悟しながら(極端に言うと、震えながら)生活している感じなので、井上荒野さんの心配事もとてもよく分かり、ついつい号泣してしまいました(TーT)
ネコメンタリーは、とても素敵な、心温まる大好きな2番組です。最初は文章だけの掲載にしようかと思っていましたが、猫ずきの方の心に、より沁みるように(テレビを見ていない方に興味を持っていただけるよに)、画面のねこさんをスマホで撮影。画像をアート風加工させていただきました。